時事自考

時事ネタを中心に個人的な考察を上げていきます。

保育園問題は終わらない

保育園の問題は相変わらず話題になりやすいみたいですが

もっとも、自分は保育園問題は関係無いという立場ではあります。保育園に入れなきゃいけないような子供もいないし、公園なんて行くこともほとんどありません。そういう意味では、保育園も無くても良いし、公園も無いと困るような感覚はまったくありません。

それでも、こういう記事を書こうと思ったのは、こちらの記事を読んだからです。

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もちろん、関連の記事についても読ませていただきました。

まあ、日本だと、自分みたいな立場の人間が意見をしようとすると「何も知らない奴が」とか「関係無い奴は黙ってろ」とか言われるんでしょうけど。

私がこちらの記事を読んだ感想として、正直なところ、非常に議論として適切だと感じました。後半は確かに飛躍していますが、これは、賛成派も反対派も「行政vs住民」であることを指摘していると考えれば至極妥当だと思います。

どういうことかというと、賛成派は反対派に働きかけるべきであるし、反対派は賛成派に働きかけるべきだということです。しかし実際には、どちらもそういう行動を取るのはごく一部で、大半は行政に対して働きかけることしかしていません。この点は日本人の良くない傾向だと思っています。

おそらく、こちらの記事の方が後半で言いたかったことは、保育園を作ることを求めているなら、反対派と同じように反対派よりも多数意見であることを見せつけるべきであり、そういう声を上げないということは、そもそも保育園はそこまで必要としていないんじゃないか?という可能性も示唆していると考えます。

感情論に始終する日本の退廃

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ただ、この記事に対するコメントを見たときに、日本では議論できないという実感を感じました。というのも、彼の意見に対して異論を述べている方々の趣旨が、ほとんど感情論にしかなっていないためです。

例えば父親と子供が遊ぶ空間が必要というのであれば、別の公園に行けば良いでしょう。都内に全く公園が無いわけではないですし、移動すると言っても電車で数十分の距離なら大したことはないはずです。日中なら電車も混んではいないでしょうし、何ら問題になることはないはずです。

もちろん、近くに公園があることによる利便性は言うまでもありませんが、それなら23区内でなく、東京でも郊外に行けば良いと思います。もちろん、これによって別の不便は出てくるとは思いますが、公園が近くに無いという問題は少なくとも解決するはずです。

結局、そういう人たちは単純に「無い物ねだり」をしているに過ぎないというのが正直な感想です。そして、それよりも問題なのが、賛成派も反対派も多くの人間が行政に解決を求めている点です。もちろん、これ自体が悪いことではありません。ですが、全てを行政に委ねるとどうなるかというと、自分で解決する能力がなくなってきます。

結果として、国家や行政の意図通りに動かされる。具体的には戦時中の日本のような状態になる可能性があるということです。今は「そんなことはさせない」と思っている方が多いとは思いますが、どちらの意見も聞くことによって、少しずつ都合が良い形に変えられるというのは、ありえないことではありません。

そもそも保育園は不要という考え方

ここで問題の発端である保育園ですが、自分としては保育園の必要性を感じません。なぜ保育園が必要なのか?と考えたときに必要であることの正当な理由が理解できないためです。

「共働きできないから?」それとも「女性が活躍できる社会にするため?」

そういう話は聞きますけれども、そもそも「共働きが必要」になっている事態そのものがおかしいのではないかと考えています。かつては共働きをしなくても、十分に生活できていたわけですから、そういう方向に持って行かされていることに疑問を抱くことの方が自然なわけですが、誰もその点を議論しないというのはおかしい話です。

そして、「女性の活躍」ですが、それと保育園にどういう関係性があるのかも理解できません。この話の時、女性にフォーカスされて話はされますが、男性についてフォーカスして話がされることはありません。つまり、男性は家で育児をするのではなく外で働くべきという考え方が前提になっているのではないでしょうか?

もっとも、最近になって専業主夫というのも理解されるようになってきましたが、基本的に「女性が外で働く権利」については積極的なのに、「男性が家で育児や家事を専門でする権利」については認めないというのは片手落ちです。また、それ以外にも育児をシェアするという方法もあるのではないかと思います。そう言った解決策を模索しないで、安易に保育園に解決を求めるという姿勢も、同様に退廃的ではあります。

人は考える葦

この言葉はパスカルの言葉でありますが、葦というのは弱いものの例えで、しかし、考えることによって戦って勝ってきたということを言っていると理解しています。

現代のように条件反射的な形で、無いから作るべきとか、これまでの経緯で存在しているから残すべきだ、という意見はどちらも考えている、すなわち、問題を解決しようとしているとは思えません。だからこそ、現状は少数の人と多数の葦が議論しているも言えるでしょう。

このまま行けば、日本人が人ではなく葦になるのも時間の問題だと思います。