知識の差という問題ではない
代案なしの反対については、以前から度々議論の対象となってきていましたが。代案が無くても反対するのを認めるべきという記事があり、それを見た純粋な感想としては、極端すぎるという印象です。
もちろん、議論する者同士、その分野において同程度の知識を持っていることなど稀だと思います。知識の差があるからこそ、同じクオリティの代案を出すのは難しいというのは当然ありえますが、それ以上に代案を出すのに必要な考える時間というものが圧倒的に足りないということもあり、同じクオリティの代案を議論の中で新しく見つけ出すのは不可能です。
それでもなお、代案を必要だと主張する理由として、議論することの意義があります。議論というのは、原案に対して正否を決めるものではなく、原案を正しく共有し、改良を模索するためのものだと考えているためです。
もちろん、議論した結果として、不採用となる場合は十分にありえます。しかし、それは議論を尽くした上で決めるべきであり、その前から決めるのは議論する意味を否定することになります。
議論する意味は共有
そもそもの議論において、なんとなく反対というのは以ての外です。なぜなら、議論することは原案そのものだけでは無く、原案の背景や意識なども含めた全てを理解し、共有するための場でもあるためです。
だからこそ「なんとなく」という言葉が出てくる時点で、その人は原案を正確に理解していない可能性があります。もちろん、知識の差はあるにせよ、理解できなければ理解できるまで詳しく質問をするべきであり、それをしていない時点で議論に参加していないことと同義です。
代案を出さない人が無能であるというのは、代案を出さないこと以上に「議論している内容を理解しようとしない」姿勢にあると思います。
質問することは日本では好ましく思われないかもしれませんが、質問することも議論の一つであるという認識を持つべきであり、それによって、情報が整理されることも少なくはありません。
この辺りは、自分自身も反省する余地は十分にあると思っています。改めて考えてみないと、なかなか気づきにくいものです。
代案は大きく変える必要は無い
この辺りは認識している方も多いとは思いますが、代案は原案を大きく変える必要はありません。ましてや、正しい必要もありません。僅かな綻びにおいて、正しくないかもしれないけれども、自己の知見から変えたほうがいい部分を説明できれば代案として十分なのです。
もっとも、これも日本においては「粗探し」として非難される対象にはなりますので、この点も良くない傾向ではあります。
そもそも議論において、重要なのは原案そのものであり、原案を作った人間など重要ではないためです。もちろん、原案の背景を知る上で作った人間を把握するのは助けにはなりますが、あくまで必要なのは原案の背景であり、作った人間の背景でないことは注意が必要です。
結果として、これらのことから、反対する上では代案を出すべきということになります。