普通っていうのは
こんな記事を見て、普通っていうのは何だろうかと改めて思いました。
普通と言うと、一般的、とか、みんながやっていることとか、そんな意味で使われることが多いわけです。
しかし、本来の意味は実は違っていて、普(あまね)く通(つう)じるということで、最も根源的なものという意味だったりします。これは、「すべての道はローマに通ず」のローマのようなものだと思ってもらえれば良いかなと。
先の記事の同調圧力にも挙げましたが、日本のサラリーマンはスーツが普通だと思われていますが、もともと日本の正装は和服なので、紬とか直衣とか直垂あたりを着るのが本来でしょう。そういう捉え方をすると、スーツは日本では普通ではありません。
日本を取り戻す、とか言うのであれば、せめてスーツでなく仕事着を羽二重とか束帯とか着ろという気がしなくもありません。
普通というのは、同調圧力の結果に過ぎない
話が逸れてしまいましたが、改めて普通とは何かと考えると、事象としては極めて単純で同調圧力により生じた理想形となります。ですので、一般的に言われる普通の事柄が根源的には普通ではないということは多々あります。
むしろ、現代においては、そう言った事例の方が多いと思った方が良いでしょう。数が多いので全ては出しませんし、今はあまり言われないこともありますが、
- 家事は女性がするのが普通 → 男性がやっても良いし、いっそのこと、主夫だって良いじゃないかと。
- 女性も社会進出して(社畜として)働くのが普通 → 働きたくないなら別に働かなくても。
- 朝9時から夕方5時まで働くのが普通 → その時間であることが必要な仕事なんて、そんなに多くない。
- 仕事はオフィスに行ってやるのが普通 → オフィスじゃないとできない仕事って、そんなに多いのだろうか。
- 一日三食が普通 → 食べたい時に食べれば良いじゃない。
- 自分の仕事が終わったら、他の人の仕事を手伝うのが普通 → いらんお節介だと思うけど。
- 夜の飲み会に参加するのが普通 → 残業代出ませんよね。しかも費用自腹ですよね。
などなどです。一部、炎上しそうな内容もありそうですが、個人的には概ね否定的です。もちろん、最近では普通でなくなってきているものもありますが、これも10年ほど前は普通だったものもあります。
そう考えると、普通として定義されたものが、軽薄なものかわかります。
普通とは存在しない。
ここで、普通なものは実は普通で無いというのを(良い加減に)証明したいと思います。
まず、ある時間Tにおける事象Aが普通であるとします。
また、任意の時間T+tにおける事象Aが普通だとした場合、その1秒後のT+t+1における事象Aはどうかというと、普通だと思います。これを偽であるとするには、1秒前に普通だったことが1秒後に普通でなくなる場合があることを証明しないといけませんが、難しいと思います。
そして、最後に時間T+t+t'における事象Aは普通ではありませんでした。
という帰納的証明を考えると、そもそも事象Aは普通ではなかった。ということになります。(QED)
・・・なんてことはありません。
実は、「普通」の状態と「NOT(普通)」という状態の中間の状態が存在する可能性があるということです。この中間の状態があるのは体験的に間違いないはずなのですが、補集合の関係にある両者のいずれでも無いという状態は定義上存在しえません。
中間の状態が存在しないということは、そもそもの端点である「普通」という状態自体が存在しないということになります。ゆえに「普通」と言うのは存在しない事象、虚構であるということです。(QED)
結局、普通というのは
実体があるものではなく、人と人の関係の中(同調圧力的な何かを含む)によって存在しているように見せかけられたものだということになります。もっとも、人と人との関係や他人自体についても突き詰めれば実体の無いものとなってしまうのですけれども、そこは色々と本を読むと良いかと思います。
まあ、機会があれば、そこも記事にするかもしれません。哲学的な話になってしまうので、ブログの趣旨からは外れてしまうんですが。