時事自考

時事ネタを中心に個人的な考察を上げていきます。

【社会】「お疲れ様です」という風潮

タモリさんがヨルタモリで発言した、「お疲れ様」というのはいかがなものかというのが話題になっていますね。

確かに取り上げていた記事に書かれていたように、日本語では上の人が下の人をねぎらうための言葉です。

あくまで本来の意味ではというところですけれども。

 さて、「お疲れ様」というのが、今の地位を築いた経緯とかも考えてみると、まず一つには、日本の西洋化と和の精神が根底にあるのではないのかと思う次第です。

西洋は思想の根底にキリスト教があるわけですが、キリスト教は上に絶対の存在がいて、下の存在は常に庇護化にあるという世界観なわけです。

その中で、下の存在は上の存在の行いに敬意を払う、そして労うという考えが強いのではないかなと。(ちなみにキリスト教については全く知りません)

それと和の精神。お互いがお互いを思いやる精神というのが、「お疲れ様」を万能化させたのではないかと。

 

二つ目は、日本が完全成果主義になっていないところと関係しているように思います。

というのも、「お疲れ様」の背景には、相手が色々と行動(主に仕事とかですけど)したから疲れたんじゃないかな?という思いやりの考えが含まれていると思うわけです。

そこには行動した結果、すなわち良かったか、悪かったかというのは一切言及していない、単に行動した結果として相手が「疲れた(手を煩わせたとか負担をかけたというのも含まれていると思います)」という結果として集約しているのです。

頑張って成功しても、失敗しても、その頑張りは認めてあげた上で「お疲れ様」という。

成功を過剰に褒めるわけでもなく、失敗を過剰に責めるわけでもない、そんなゆるい感じが日本的でいいんじゃないかなと思いますけども。

 

ちなみに、似たような意味の「ご苦労様」が普及しなかったのも、そこにあるからじゃないかなと思います。

お疲れ様が行動した結果をとしての意味合いを持っているのに対し、ご苦労様は行動の経過としての意味合いを持っているんです。

そう考えると、今も苦労している、すなわち、失敗の色が濃いという暗示を匂わせるわけで、この失敗を匂わせる部分がやはり敬遠されがちな理由なんじゃないかなと。

 

とはいえ、世の中には「朝から『お疲れ』とはどういうことだ?!」という方もいるようですが、これは個人的にはどうかなと思いますね。

人間はロボットじゃないわけですから、行動すれば、少しずつ疲れてくるんですよ。

ロボットは燃料が切れるまでは疲れ知らずで行動しますけれども、燃料が切れたタイミングで一気に動かなくなるわけです。

なので、ロボットに対して朝から「お疲れ様」というのは不自然に感じますけれども、作業の終わりに動きが止まって「お疲れ様」っていうのは自然な感じがするんですね。

人間は、行動のそれぞれで疲労がたまるわけですから、朝の時点でも多少なりとも「疲れ」はあるわけですよね、それに対して「お疲れ様」というのは、現代の感覚でいえば、別に問題ないんじゃないかなと思うわけですよね。

 

そんなわけで、挨拶として「お疲れ様」っていうのも、今の日本的で良いというのが私の見解です。

別にタモリさんの見解を否定しているわけではないです。タモリさんの発言を、そのまま受け取るなら、TPOに合わせた挨拶があるはずなのに、それを全く考えない風潮はどうなの?とも取れるわけで、確かに、TPOを考えてふさわしい言葉を選ぶ努力はすべきなんじゃないかなと。