なぜ働かなければいけないのか
最近話題になっている、こちらのツイートに始まる一連のやりとりですね。
そういう人は働いたほうが社会全体の富が減って結果として自分も損するって事に気付いてない。生産効率の悪い人を無理やり働かせる為に生産効率のいい人の貴重な時間が無駄になっているのだよ。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2015, 8月 20
この発言って、生産性の悪い人が無理にでも働かないといけない社会を疑問視しているんじゃないかなと。
労働=善という価値観
生産性が悪いというのは、能力が低いと同義に捉えることもできますが、厳密にいうと、能力の問題ではなく、向き不向きの問題の方が大きいですね。
つまり、自分に向いていない仕事でも仕方なく働いている状態は正常なことなのか?ということを問うていて、その人自体が有能/無能というのを言っているわけではないということです。
もちろん分野を絞れば、有能/無能は当然でてきます。
自分で言えば、プログラミングの分野であれば、そこそこ能力を発揮できる、まあ辛うじて有能と呼べるか?くらいのレベルにはあるかと思います。
逆に、文章作成や営業、デザインとかは無能通り越して壊滅的だったりします。
今の社会の仕事って、あれもできなきゃ、これもできなきゃっていうのが多いんですよね。特にIT関係は顕著です。
でも、不得意だったり、やっても身にならないことをやり続けるくらいなら、いっそのこと多少なりとも得意な部分を伸ばしてやっていこうっていうのが趣旨なんじゃないかなと。
好きこそものの、と言いますし
まあ、好きなんだったら、多少苦手だったとしても、熟練してくるものではあるので、それはやっていいのだと思います。
まとめると、
- 生産効率の悪い人=その仕事に向いていない人
- 無理矢理働かせる=好きでもないことをやらせる
ということかなと。
まあ、違うかもしれないですけれどね。自分はこういう他人の意図を読み取るのもかなり苦手だったりするので、だからこそ、自分の世界に浸れるものが好きになるのかも。
端的に言うと、得意なこととか、好きなことをやってお金を稼げたらいいんじゃない?って言っているのではないかなと。
そこまでして働かないと生きていけない社会って
もっとも、それを障害者差別に結びつけるというのが、なんとも言えず複雑な気分ではありますね。普通に社会的には障害者の枠にありながらも、様々な分野で功績を残した方は少なくありません。この評価も贔屓目など、一切なしで評価されているわけですから、正当な評価と言って差し支えないかなと。
好きなことをできる社会が一番
とはいえ、今の社会では、得意とか好きなだけでは仕事にできないという現実が多々あります。特にミュージシャン、作家、芸人なんかはそうですね。
もっとも登り詰めればいずれもすごいですけれども。こういった人たちが、得意でないことを嫌々働かなければならないようにするために、ホリエモンはベーシックインカムの制度を推奨しているんじゃないかなと。
もちろん、身にならなければ、最低限の生活水準になるのはありますけれども、収入0で生きていけないという状況にはならなくなります。それを受け入れてでも得意なこと、好きなことに打ち込みたいのであれば、それだけやっていても、そして芽が出なくても、最低限、生きてはいけるという社会なんですね。
もっとも、こういった世界でも問題がないというわけではないですが、今のように、生きるために自分らしさを捨てるよりは良いんじゃないかなと思ったりしています。